2023/2/24 チンギスハン
- スミレ
- 2023年2月24日
- 読了時間: 4分
更新日:2023年7月9日
店長スミレです。ちょっとづつ気温が春に近づいて、早く春が来て桜の開花がみたいなと思う今日です。
皆さん、春までもうちょいの辛抱ですよ。
さて、今日も何か仕事に関連するネタでも書こうかなと思いましたが、
全く関係ないネタを書こうかなと決めました。ずばり今日はチンギスハンです。

今から約800年前頃、日本は壇ノ浦の戦いで平家が敗れ、鎌倉時代が始まる頃、
モンゴルにいたチンギスハンの統制力、カリスマによりモンゴル帝国を納めました。
今の中国、ロシア、モンゴル辺りまで世界で一番大きな帝国だったのには間違いありません。
なぜモンゴルは強かったのかというと、
騎馬を用いた機動力の高さ
最新テクノロジー兵器の導入
個々の兵の質の高さ
勝ち負けにこだわる遊牧民の気質
と言われています。
基本的に戦い方に恥という概念を持ちませんでした。
どう勝とうが勝ちは勝ち、つまり不意打ちをして勝とうが勝ちは勝ち。勝たねば意味がないわけです。
さらにもう1つモンゴル軍の強さの秘密が、徹底した情報戦にありました。モンゴル軍は次に攻略する都市に侵攻する前に、事前に使者を派遣し、いかにチンギス・ハンとその配下の兵たちが人間離れした連中かを宣伝させました。
「1人のモンゴル兵が大勢の住民がいる街に入り、街の住民を殺していくが誰も手出しができなかった!」
このような嘘の話を語らせることで降伏を求めるのです。そして素直に降伏した者は公正に扱うが、それでもなお抵抗した者は徹底的に殺戮します。大部分の者は殺し、すべての富を奪った後、一部の者は次の都市に送り出し、いかにモンゴル兵が恐ろしいか語らせるのです。
チンギス・ハンは「ペンは剣よりも強し」を経験から学んでおり、自分が恐怖の大王であることを宣伝し広めることで敵に恐慌を起こし、攻める前から士気を下げることに努めました。
つまり、実際は恐怖の情報を拡散させて誰も反抗させない社会を作るようにしたのです。
実は、このモンゴル帝国を維持するために貿易を活発にさせ、繁栄するために考えれらたのが物資の輸送方式です。例えば、昔ヨーロッパから中国まで行こうと思っても馬がずっと走れるわけでなく
休憩も必要です。でも、ずっと走れるようにするにはどうすればいいか?で考えたのが
20-30km位置毎に食料や馬の拠点を作ったのです。 いわゆる駅の考え方が誕生しました。
モンゴル帝国は統制・維持管理を行う。商売人はモンゴル帝国が発行した通行許可証で商売を行う。
この通行許可証があれば、手紙などがすぐに伝えることができる。
この貿易路によって、中国で発明された火薬・羅針盤・印刷技術がヨーロッパに伝えられていきました。
丁度このころ商売をやっていてチンギスハンに仕えていたのがマルコポーロです。
このマルコポーロの東方見聞録に東にはジパングという金銀ザクザクの国があることが書いてあり、
経済対策の一環で
日本にも手紙を送っています。
いわゆるジャイアンの法則みたいなもので、俺のものは俺のもの お前のものは俺のもの
のような内容だったと想像します。 日本は拒否した結果、怒ったチンギスハンは日本へ兵を
出兵させます。
1274年 モンゴル軍は今の博多近辺にやってきて、日本に元軍の力を見せつける程度で終わりました。
モンゴル軍はそれ以外にも別の国を征服していました(中国南部の[南宋(なんそう)]との戦いがあったので、1281年、7年後にも同じ博多近辺に、再度攻めてきました。
日本の素晴らしかったところは、元の再来を予想し,防備を進めました。
また、非常にラッキーに台風がきたという幸運もあって,日本は勝つことができました。
これによって、奇跡の勝利に「神風」という言葉が誕生しました。
こうして、モンゴル帝国が維持していたのですが、1310年から1380年まで続く長期の異常気象に襲われます。地震や洪水、疫病などの厄災が帝国各地を襲い、土台である経済が破綻し、次第に帝国は解体していくことになります。
つくづく、歴史の面白さを感じます。そんなチンギスハンも当時はなかなか美容やエステが
できる状況じゃなかったんだろうなと思います。チンギスハンができなかった、脱毛やエステが
スミレにはあります。
ぜひ、ご来店ください。
スミレ トータルビューティーサロン
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